次元は江戸切子に注いだ万寿の冷やを傾けながら、隣に座るバスローブをまとった美しい恋人をちらりと見た。

頂き物だけど自分はあまり飲まないから

と彼女が出してくれた。
海外ではめったにお目にかからない逸品だ。

とは幾度目の逢瀬になるだろう。
初めて会ってから、1年とたたない。
それだけど月並みな言い方ながら、もう何年も前から知っているような気がする。

美しい恋人は、リラックスした笑顔を浮かべ、The Beatles の「And I love Her」をくちずさんでいた。
よく彼女は無意識に歌を歌う。
無意識に気軽に唄うのは、ジャズのスタンダードナンバーやブルース、古いポップスなんかが多い。
次元はが舞台で唄うクラシックの歌曲の数々が勿論好きだが、なによりプライベートでしか唄わないそんな歌を聴くのもたまらなく好きだった。
風呂上がりにペリエを飲みながら唄う彼女の隣で、ゆっくりと旨い酒を飲むのは至福の時だ。

こうして特定の恋人を持つのは何年ぶりだろう。

彼にとって女の思い出は苦いものが多い。
なんといっても彼の生業が生業だ。

関係を継続するにあたって、大抵の場合、互いの価値観に合わせる事が出来なくなり、破綻に至る。
若い時分のそんな繰り返しで、彼はいつしか特定の女と関係を持つ事は少なくなった。
そうしてみれば、それはそれですっきりする。
セックスは必要な時に調達すれば良い。
ルパンのように素人相手に恋愛ごっこを楽しむような趣味はない。

そんなやりかたを何年も続けていて、今のようにあらためて恋人と呼べる女を持つとは思わなかった。
そして、その女とこんな風におだやかな気分で一緒に過ごす事ができるとは。

あらためて、唄うをちらりと見た。
いつしかそっと彼女は次元に寄り添っていた。その体温が心地よい。

は信頼できる、と次元は思っている。
愛して、かつ信頼できる女というのはなかなかいない。
「信頼できる」というのは単に「自分を裏切らない」という事ではない。
は勿論、次元を裏切らないだろう。
しかし次元が感じる彼女への信頼というのは、は彼女自身をよく知っているという事だ。
はどこにいて何をしていても自分自身として立っていられる。
その事がなにより彼を安心させた。

そして彼女はほとんどの場合思った事をまっすぐに口にする。
そして思ってもいない事は言わない。
だから目の前にいる彼女は、彼女の全てだ。
そう思える。

「・・・・・・どうしたの、次元。」

歌を止めてもたれた体を起こす。彼の視線に気付いたようだ。

「いや・・・・。いい女だと思ってな。」

次元はにやっと笑う。
は照れもせずにくすっと微笑んだ。

「当たり前じゃない。だからこうして一緒にすごすんでしょう?」

「・・・・・・まあな。」

次元は空になった切子に、また酒を注いだ。
甘くきりりとしてさわやかな香りが鼻をつく。

「お前ぇは・・・・・・・何かに不安になったりする事はあるのか?」

ふと次元は尋ねた。
は姿勢を正して、次元を見る。
ペリエを飲み干した。

「不安・・・・・?あるに決まってるじゃない。
まったく不安のない人間なんているの?
あなたは不安に思う事って、何一つないの?」

「そりゃ、あるにはあるさ・・・・・。」

「でしょう?だったらどうしてそんな事聞くの?」

「・・・・・・いや、お前ぇはいつも自信たっぷりだから、そんなお前ぇでも不安な事があるのか、と思ってな。」

の反応が少し意外な気がして、取り繕うように次元は言った。
心の底で、昔に出会った女達を思い出していた自分に気付く。
彼の身を案ずる余り離れていったり、傷ついたりした女達を。

は立ち上がってキッチンからグラスを持ってきた。
日本酒をたっぷりのペリエで割って、少しずつそれを口にした。

「おい、いくらアルコールが喉に悪いからって、その飲み方はねえだろう。そんな事すんなら飲むなよオイ!」
次元は思わず声を上げる。

「・・・・・だって、飲みたくもなるわ。」

は悲しそうな顔をする。
その表情は次元の心に突き刺さった。
二口ほど飲んで、ため息をついたの伏せた瞳から涙がこぼれた。

「私が今まで恋人と別れを予感した時は、大抵そんな風な事を言われた時だったような気がする・・・・・・。」

次元は酔いが醒める思いだった。

その時の部屋の電話が鳴る。
ソファから体を伸ばして受話器を取った。

「ハイ、私よ。ああジェイ・・・・・・・、ええわかったわ。
そう、まだみんないるのね?だったら、私今から行くわ。
明日改めてよりその方が良いでしょ?私もジェイがいる時に決めた方が安心するし。じゃあ。」
電話を切って、立ち上がる。

「スタジオに行って来るわ。プロデューサーがレコーディングの後に編集をしてくれてるのだけど、ちょっともめてるみたい。」
バスローブを脱いで服を着はじめた。
次元もあせって立ち上がる。

「おい、待てよ・・・・。」

なんだってこんな時に。
まったく間が悪いとしか言いようがない。

「次元。」

シャツのボタンをとめながらは彼に向かった。
彼はの目を見て言葉を待つ。

「・・・・・おやすみなさい。」

クールなパンツスタイルに身を固めて、はエリーゼのキーを持って部屋を出た。

一人部屋に残された次元は、飲むしかなかった。

わかっていたのに、なんであんな風に言ってしまったのだろう。

わかっていた。
彼にはわかっていた。

彼が聞きたかったのは、彼女は次元を案じて不安で辛い思いをしていないか、そんな事だった。
最初からそう聞けばよかったのだが、思えば、聞くまでもない事だ。
彼女が次元を案じていない訳はない。
ただ、そんなそぶりを見せないだけだ。
それが彼女なりの思いやりなのだ。
本当はわかっていた。

それなのに。

男って奴はまったく仕方がない。

心配されたらされたで、甘えられたら甘えられたで、鬱陶しい。
そのくせ、時々どうしようもなく、惚れた女からすがられたくなる。

そんな、への自分の甘えた気持ちで、あんな事を言ってしまった。
が帰ってきたら、そんな事を説明できるだろうか。
わかってもらえるだろうか。

自分は女にそんな事が言えるだろうか。

そして・・・・・は帰ってくるのだろうか。

を失いたくなかった。

彼は薬でも飲むように、冷酒を流し込んでいった。
早く、意識を失いたかった。




たまらない口の渇きと胃のむかつき感。
そんなネガティブな感覚で彼は目覚める。こんな事は久しぶりだった。
体を動かすのがゆううつだ。
体を動かせば、今より一層悪い状態になるのはわかっているから。

しばらくそのままでいて、意を決したように目を開いた。

太陽の位置はだいぶ高いようだったが、それよりも彼の目を奪ったのは自分が横たわっていたソファの足下に座っているだった。

おもわずがばっと飛び起きる。

・・・・・!」

「だいぶ飲んだのね?」

「・・・・・そりゃあ、飲む以外に何ができるよ。」

「仕事はなんとか終わったわ。信頼してるプロデューサーが今日の午後にはシアトルに行かないといけないから、ちょっとあせってたの。」

は自分の飲みかけのヴォルヴィックを次元に差し出した。
次元は何も言わずそれを飲む。なんとも旨かった。

「次元・・・・・・・・本当は、わかっているわね?」
彼女は大きな目で、じっと見上げて言った。

「ああ。お前ぇの事は、ちゃんとわかってる。
すまなかった、あんな・・・・言い方をして。
・・・・・・お前が、そんなに強い女じゃないのもわかってる。」

「・・・・・そして私がいつもあなたの事を心配しているのも?」

「勿論だ・・・・。本当に悪かった・・・・・。」

はゆっくり次元の手に触れた。

「私の方こそごめんなさい・・・・・。
あなたが他の人と同じような気持ちで言ったのではないって、冷静に考えたらわかるのだけど・・・・ちょっと悲しかったのよ。」

言ってからくすっと小さく笑った。

「ちょっと、拗ねてみたくなったのかもね・・・・。」

次元はの隣に座り、髪をなでながらぎゅっと抱きしめた。
思わずくちづける。彼女の熱をぞんぶんに味わった。

「・・・・・・本当にだいぶ飲んだのね?」

「酒くせえか?」

次元はにやっと笑う。

「相当に。」

言いながらもは次元の髭をもてあそんで、自分からそっと次元に口づけた。

「・・・・・・あなたがいなくなっていたらどうしようかと思ったわ。」

「そんな訳ねえだろうが。」

夜中からスタジオに行っていたは今日がオフになり、シャワーをあびてベッドに入った。
徹夜をした分、ゆっくり眠る。

そして二日酔いの次元は愛しい恋人になにもできず、となりで頭痛や吐き気と闘っていた。

時にはそんな逢瀬もある。